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■日本工業新聞社賞
「メタボローム(細胞内全代謝物)測定法の開発」
慶応義塾大学環境情報学部先端生命科学研究所助教授
曽我朋義氏  

1.はじめに

 ヒトをはじめさまざまな生物種のゲノムが解明され、生命科学の研究はポストゲノムといわれる次の段階に入っている。ポストゲノム研究は@ゲノムレベルでの全遺伝子、Aそれらの遺伝子が細胞内で発現する最初の姿であるmRNAの総体(トランスクリプトーム)、BmRNAによって生産されるタンパク質の総体(プロテオーム)等を解明し、これらのデータにもとづき、多くの生命現象を理解しようという試みである。

 生物の生命活動の維持に必要な物質と化学エネルギーは代謝により生産され、その代謝物質は、遺伝子と酵素の発現量にもとづいて生産される。一方、タンパク質および代謝産物量が、遺伝子の発現を制御している。したがって、遺伝子やタンパク質の発現のみならず、タンパク質が生産する全代謝物質(メタボローム)も網羅的に測定し、遺伝子発現や酵素活性との関係を解明することが生命現象を完全に理解するために必要不可欠である。

 既に欧米ではメタボロームの研究はマックスプランク研究所やいくつかのベンチャー企業が着手し始めており、メタボロームの国際学会も誕生している。しかし、まだ細胞内の代謝物質を網羅的かつ直接定量できる決定的なメタボローム測定法は確立されておらず、その開発が課題とされている。

 我々は、一昨年よりメタボローム測定法の開発に取り組んでおり、キャピラリー電気泳動-質量分析計(CE-MS)によるメタボローム分析法を世界に先駆けて開発した。本法を枯草菌に応用したところ、細胞内に存在する1,692成分の代謝物質の測定に成功した。本稿ではこのメタボローム測定法の原理、測定結果および応用例について報告する。

2.メタボローム測定法の開発
2.1メタボローム測定の問題点および従来法


 細胞内の代謝物質の多くは、イオン性が高い、UV吸収がない、不揮発性、低濃度、物理的、化学的性質が似ている等の特徴を有し、さらに細胞内に1,000以上存在することが、代謝物質の一斉分析をより困難なものにしている。

 最近、メタボロームの測定方法がいくつか報告された。一つはガスクロマトグラフィー-質量分析計(GC-MS)を使用する方法である。このGC-MS法は、揮発性成分の分析によく用いられる方法で、GCで各化合物を分離後、質量分析計で検出する。マックスプランクのグループはGC-MSを用い、シロイヌナズナから362種類の化合物を検出した。(1) GC-MS法は高い分離能、選択性、感度を有した測定法であるが、メタボローム測定を行う場合は以下に述べるようないくつかの問題点がある。@細胞内の代謝物質は、ほとんどが不揮発性物質であるため、直接GC-MSで測定することはできない。そこで、A代謝物質を揮発化するための誘導体化反応が必要となる。B多くの代謝産物を揮発化するには、いくつかの異なった誘導体化反応が必要である。さらに、C誘導体化できない物質や誘導体化しても揮発しない代謝物質が多く存在する。したがって、GC-MS法で、すべての代謝物質を測定することは不可能であり、揮発化できない代謝物質は他の方法で測定しなければならない。

 近年、高分解能の核磁気共鳴装置(NMR)(2)やフーリエ変換イオンサイクロトロン共鳴質量分析計(FT-ICR-MS)(3)を用いたメタボロームのプロファイリング分析法も開発された。これらの方法は簡便であり、瞬時にメタボロームのスクリーニングが行えることが最大の利点である。例えば、正常細胞とガン細胞のプロファイルのパターンを容易に比較、解析することができる。しかし、NMR法は感度と定量性が極めて低い。またFT-ICR-MS法は、細胞内に多く存在する異性体が分離できない、また定量性に乏しい等の欠点がある。

2.2 メタボローム測定のストラテジー

 考え抜いた末、細胞内に1,000種類以上が存在する代謝物質を全て測定するためにはキャピラリー電気泳動-質量分析法(CE-MS)(図1)を開発するほかに手段がないという結論に達した。そのストラテジーはキャピラリー電気泳動(CE)により代謝物質をある程度分離し、質量分析計(MS)でそれぞれの代謝物質を選択的に測定する方法(図2)である。この新手法は、細胞内代謝物質のほとんどが陽イオン性か陰イオン性の低分子であるという特性を利用する。図2に示したようにCEでは高電圧をキャピラリーの両端に印加すると、すべての陽イオン性物質は陰極に、陰イオン性化合物は陽極に移動する。キャピラリーの出口にMSを接続し、導入された代謝物をそれぞれの物質固有の質量数でモニターする。この方法を用いれば、二つのCE-MSシステムで陽および陰イオン性代謝物質の網羅的かつ選択的な測定が可能となる。

 



2.3 CE-MSによる陽イオン性代謝物質の測定法の開発


 最初にCE-MSによる陽イオン性代謝物質の測定法を開発した。CE-MS法を開発する上で重要な点は泳動緩衝液の選択であり、以下の点を考慮した。@MSに導入可能な酢酸、ギ酸、炭酸およびこれらのアンモニウム塩等の揮発性緩衝液を用いる。A多くの物質を陽イオンにするpHを選択する。理由は、アミノ基を持つ陽イオン性化合物であっても、pHが高いと、アミノ基の解離が抑制されて中性となり、さらに陰イオン性官能基を持つ物質は陰イオン性を示すからである。多くの陽イオン性代謝物質を一斉に測定するためには、pHの低い泳動緩衝液を使用し、アミノ基の解離を促進し、陽イオン性を高くする必要がある。そこでアミノ酸19種類を用いて至適緩衝液を検討した。アミノ酸の等電点は2.77(Asp)から10.76(Arg)である。したがって2.77以下のpHでは、すべてのアミノ酸が陽イオンとなり、陰極方向に泳動するためCE-MSで同時測定できるはずである。そこで、pHが2.5以下になりかつ揮発性であるギ酸をCE-MSの泳動緩衝液として選択した。ギ酸の濃度を50mMから1Mまで変化させ、CE-MS測定におけるアミノ酸分析の影響を検討した。(4) ギ酸の濃度が100 mM 以下になるとアミノ酸のピークが広がり分離が悪くなった。一方、ギ酸の濃度を高くすると、ピーク形状が改善された。1Mのギ酸を用いたとき、異性体であるLeu、Ileも完全分離したため、1Mギ酸をCE-MSの泳動緩衝液とした。



 続いてCE-MSの検出条件を検討した。図3にArgのマススペクトルを示した。Argの分子量は174であり、それにプロトンが付加した175のプロトン化分子[M+H]+が観察された。他のアミノ酸についても同様に[M+H]+の分子イオンが認められた。したがって、それぞれのアミノ酸の[M+H]+を検出質量数に選択して、アミノ酸標準液を測定した。泳動時間が同じアミノ酸でも検出される質量数が異なるため、19種類のアミノ酸を選択的に測定することができた(図4)。この方法を用いて、多くの陽イオン性化合物を分析したところ、すべての成分が検出された。この結果より、本法はほとんどの陽イオン性代謝物質の測定に適応可能であることが示唆された。



2.4 CE-MSによる陰イオン性代謝物質の測定法の開発


 続いて、CE-MSによる陰イオン性代謝物質の一斉分析法の開発を行った。しかし、MSを陽極に接続したシステムでは、数十秒で電流が流れなくなる問題に直面した。最初は、不明であったが、試行錯誤するうちに電流が流れなくなる原因を突きとめることができた。キャピラリー電気泳動では、高電圧を印加した際に、陽極から陰極に電気浸透流(5)と呼ばれる液の流れが発生する(図5A)。陰イオン性化合物を測定するシステムでは、電気浸透流が質量分析計側からキャピラリーの入口側に液が流れるため、キャピラリーの出口側に空気が入って電流が流れなくなったのである(図5B)。この問題を解決するためには、電気浸透流を陰極から陽極(MS側)に反転することが必須であった。いくつかの電気浸透流の反転方法を試した結果、表面がプラスに帯電したキャピラリー(6)を使用して電気浸透流を陰極から陽極に反転する方法を用いた場合(図5C)に限り、CE-MSによる安定した陰イオン性物質の測定が可能になった。(7) そこで、この方法を用いて細胞内の代謝反応の基本であるエネルギー代謝(解糖系、TCA回路、ペントースリン酸回路)の陰イオン性代謝物質の標準液の測定を行った。異性体であるグルコース6リン酸とフルクトース6リン酸の分離に苦労したが、種々の条件を検討することでヌクレオチド類を含めた代謝物の標準液25成分の一斉分析が可能となった(図6)。(7)

 これらの陽イオンおよび陰イオン化合物測定法を用いて、市販されている代謝物質標準試料を分析したところ、わずか三種類のCE-MS条件で352種類の物質が一斉分析できることが確認された。(表1

3.枯草菌のメタボローム測定
3.1代謝物の抽出法の開発


 精度の高いメタボローム測定を行うためには、細胞から正確に代謝物質を抽出し、測定装置に導入する必要がある。そのため以下の点に考慮し、代謝物質の抽出法を開発した。@外的な刺激により代謝は進行するため、酵素を瞬時に失活させ、代謝反応を止める。A陽イオンおよび陰イオン性代謝物質を同時に抽出する。B高感度測定を可能にするため、代謝物質の濃縮を行う。C分析前に抽出物はCEの分離性能を損なわない溶媒に溶解する。上記の条件を満たすため、有機溶媒を用いて酵素を失活させる方法を検討した。枯草菌をメタノール、クロロホルム、トルエン、アセトンのそれぞれの溶媒に浸して酵素を失活後代謝物質を測定したところ、メタノールを用いたときが、他の有機溶媒より、5倍から13倍濃度が高かった。そこで、メタノールを用いて細胞から代謝物質を抽出する方法を開発した。図7に我々が開発した前処理法を示した。培養後細胞をろ過により培養液から分離し、瞬時にメタノールに入れ酵素を失活させた。細胞内のリン脂質やタンパク質がキャピラリーに吸着し、CE-MS測定に悪影響を及ぼしたため、これらの化合物を除去する方法を追加した。リン脂質等の脂質類は液々分配によって、クロロホルム相に除去した。この分配系では、多くのタンパク質がクロロホルム相と水相の境界面に溶解し、水相には極性代謝物質と一部のタンパク質が溶解した。そこで水相を取り出し、限外ろ過フィルターに通して残存しているタンパク質を取り除いた。ろ液を凍結乾燥後、純水を加えて溶解し、CE-MSで測定した。この抽出法の利点はろ過する培養液量に制限がないことである。ろ過する培養液量を増やせば、大量の代謝物質を抽出することができ、大幅な高感度分析が可能になる。

3.2全イオン性代謝物質測定法

 続いて全イオン性代謝物質を測定する方法の開発を行った。CE-MS法ではほとんどすべてのイオンはMSに導入される。したがって、数十から千以上までのすべて質量数でモニターすれば、イオン性代謝物質を網羅的に検出できるはずであると考えた。そこで広範囲の質量数を測定する場合に用いられるスキャンモードを選択し、枯草菌抽出物を70から1,000までのすべての質量数で測定した。しかし、スキャンモードの感度は低いため、多くの成分を検出することができなかった。次に高感度検出が可能な選択イオンモニタリング(SIM)を用いて測定した。しかし、このモードでも選択した質量数が多くなるとやはり感度が低下し、多くの成分を検出するには不十分であった。そこで選択した質量数を少なくすることで感度の増加を試みた。選択する質量数を30程度にすれば多くの枯草菌の代謝物質の検出が可能になった。そこで70から1,000まで質量数30毎に設定したメソッド(例えばメソッド1が質量数70-109、メソソッド2が質量数110-129、…)を作製し、それぞれのメソッドで同一試料を繰り返して測定する方法を考えた。この方法を用いて一つの試料につき33回自動連続測定し、質量数70から1,027までの範囲で代謝物をモニターした。得られた枯草菌中の陽イオン性代謝物質の測定例を図8に示した。この検出方法を陰イオン性代謝物質の測定にも応用し、枯草菌から全部で1,692成分の代謝物質の検出に成功した。この結果は、LIGAND(8)等の代謝物のデータベースから予想される枯草菌の代謝物質数とよく一致した。また標準液の測定結果との比較により検出された物質のうち150成分について代謝物質名が特定された。本法は、枯草菌1細胞当たりの数十zepto (10-21)molの代謝物質の検出が可能であり、枯草菌1細胞内に2万分子(アデニン)から2億分子(グルタミン酸)の代謝物質が存在していることが明らかになった。また枯草菌から測定されたおもな72成分の代謝物質について、細胞抽出からCE-MS分析までのすべての操作における再現性(n=5)を測定したところ、相対標準偏差は2%から40%と良好であった。

3.3胞子形成時のメタボローム解析

 これまで、網羅的な代謝物質の定量方法は存在しなかったため、細胞内で多くの代謝物質がどのように変化しているか同時に測定されたことはほとんどなかった。我々はCE-MS法を用いて枯草菌の胞子形成時のメタボローム解析を行った。枯草菌はグルコース等の栄養源が枯渇すると胞子を形成して休眠する。この胞子形成の研究は細胞の分化を解明するための基本モデルとして広く行われている。枯草菌をT-0.5(対数増殖期)、 T0( 胞子形成初期)およびT2(胞子形成T0 から2時間後)まで培養し、それぞれの代謝物質を前述の方法で抽出後、CE-MSで測定した。その結果を、図9に示した。図9AはT-0.5(対数増殖期)に対してのT0(胞子形成初期)の代謝物質の変動結果、図9Bは T-0.5(対数増殖期)に対してのT2(胞子形成T0 から2時間後)の代謝物質の変動結果である。10倍以上代謝物質数が増加した物質を赤、2-10倍増加した物質をマゼンタ、反対に10倍以上代謝物質数が減少した物質を紫、2-10倍減少した物質を水色で示した。図9に示したように胞子形成時には、解糖系のほとんどの代謝物質が減少していることがわかった。特にカタボライト抑制(グルコース存在時に、代謝に関連する遺伝子の発現が抑制されること)の重要な物質であるフルクトース1,6リン酸(F1,6P)が100倍以上減少した。F1,6Pはカタボライト抑制因子であるCcpA、CcpCタンパク質の活性をコントロールしており、(9)F1,6Pの減少がCcpA、CcpCタンパク質を不活性化する。その結果カタボライト抑制が解除され、抑制されていた胞子形成遺伝子群の発現を促進したため、胞子形成が進行すると推測された。

 図9AのようにTCA回路では胞子形成期にシスアコニット酸、イソクエン酸が蓄積され、これらの物質は、その後減少し、胞子形成2時間後にスクシニルCoAやアセチルCoAが増加した(図9B)。このCE-MSの測定結果は、遺伝子破壊株を用いて得られた知見とよく一致した。(10)

 次に遺伝子の発現結果と代謝物質量の変化を比較した。枯草菌の胞子形成期の遺伝子の発現結果はすでにDNAマイクロアレイを用いて測定されている。(11,12)その結果では、胞子形成期にほとんどの遺伝子の発現は抑制されている。しかし、メタボロームの測定結果は、シスアコニット酸、イソクエン酸、スクシニルCoA、アセチルCoAやCoA等いくつかの代謝物質が増加した。このことは、代謝物質の変化量は必ずしも遺伝子の発現に一致しないことを示している。理由は、代謝産物量は翻訳後修飾等による酵素の活性変化の影響を直接受けるからである。したがって、生命現象を完全に理解するためには、ゲノム、トランスクリプトーム、プロテオームばかりでなくメタボロームも網羅的に測定し解析することが必要であり、本法はメタボローム測定の有力な手法になると考えられる。

4.おわりに

 CE-MSを用いることで、細胞内のイオン性代謝物質の網羅的測定法が可能になった。誘導体化を行うことなく細胞内のほとんどの代謝物質を測定、定量できる点で画期的な方法である。本法は、世界的にも評価され、昨年5月、米化学会誌に重要論文として巻頭に緊急掲載され、(7)多くの新聞、テレビ、インターネット等のメディアで取り上げられた。また特許も取得した。(14)現在、大腸菌、藍藻、イネ、ヒトの赤血球および培養細胞中の代謝物質測定も行っており、良好な結果が得られている。数多く存在する未知物質の同定等まだまだ今後の課題はあるが、本法によるメタボローム測定により、これまでわからなかった生物学的な知見が数多く生まれることを期待したい。

謝辞

 本研究を行うにあたり、御指導、御鞭撻を賜りました慶應義塾大学先端生命科学研究所冨田勝所長、西岡孝明教授および共同実験者の大橋由明助手、上野由希技術員に心より感謝いたします。


<引用文献>
1)O. Fiehn et al. Nat. Biotechnol., 18, 1157-1161, 2000.
2)N.V. Reo Drug Chem. Toxicol. 25, 375-382, 2002.
3)A. Aharoni et al. OMICS 6, 217-234, 2002.
4)T. Soga et al. Anal. Chem., 72, 1236-1241, 2000.
5)K.D. Lukacs et al. J. High Resolut. Chromatogr. Chromatogr. Commun., 10, 622-624, 1987.
6)H. Katayama, et al. Anal. Chem., 70, 5272-5277, 1998.
7)T. Soga, et al., Anal. Chem., 74, 2233-2239, 2002.
8)S. Goto, et al. Nucleic Acids Res., 30, 402-404, 2002.
9)A.L. Sonenshein et al. Eds. "In Bacillus subtilis and its closet relatives" ASM Press, Washington D.C. pp129-162, 2002.
10)B. Uratani-Wong et al. J. Bacteriol. 146, 337-344, 1981.
11)P. Fawcett et al. Proc. Natl. Acad. Sci. USA, 97, 8063-8068, 2000.
12)R.A. Britton et al. J. Bacteriol. 184, 4881-4890, 2002.
13)T. Soga, et al., Anal. Chem., 74, 6224-6229, 2002.
14)曽我朋義 「陰イオン性化合物の分離分析方法及び装置」(日本国特許第3341765号)


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